それでも音楽の話をしよう

音楽の話題を中心に、アイデア、ひらめき、日常を書き記していきます

既にイベントは始まっている!

11月になった。

【ワリコメロシモフのハッピークリスマス 2マンショウ】の初日まで、あとちょうど1ヶ月。

12月1日土曜日、まずは梅田ハードレインで大阪編。

翌週12月8日土曜日は、三軒茶屋ヘブンズドアで東京編。

イベントとは言ってもライヴがメインで当日までは特に何をするでもなかったりがほとんどだけど、今回は明らかに違う。

大阪、東京と二ヶ所での開催もさることながら、なんといっても今回は共同での音源制作が大きな特徴だ。

時期に合わせて、クリスマスをコンセプトにした音源。

そのために、モンスターロシモフもMr.ワリコメッツもそれぞれレコーディングをした。

そして、ジャケットやフライヤーのために必要な写真撮影もした。

その過程で多くの人の世話になりながら、イベントは既に始まっていると感じている。

音源やイベント内容など、やるべきことがいろいろとあるので打ち合わせなども多くなり、それが「イベントは始まっている感」を助長する。

それがまた心地良い。

 

さぁ、イベント開催までいよいよ1ヶ月。

準備してきたことが形になりつつあり、これからがいよいよ本番かなぁ、といった感じ。

三軒茶屋の地にて。

人の集中力なんて

人の集中力なんてたいして長続きしないものだという。

訓練を多く積んだ人でさえ、もってせいぜい3〜4時間。

1日でそれ以上は無理だという。

仮に一日にそれ以上集中しているとか、それ以上仕事しているとか言うのであれば、それは本当の意味での集中はしていないという。

昨夜は、そのような考え方に出会う。

そして、そのように集中できる時間帯は朝あるいは午前中だという。

そして、ここ1ヶ月くらいを振り返ってみて、我が意を得たりと納得してしまった。

仕事の仕方の改善、進行中。

聴くポイントが分からない

Airto Moreira『AluE』という作品を聴く。

マイルス・デイヴィスウェザー・リポートで数々の名演を残したブラジル・パーカッションの名手、アイアート・モレイラのソロ作品」(『ドラム・マガジン』2018年4月号 p103より)とのこと。

Aluê by Airto Moreira on Spotify

英米を中心としたポピュラーミュージックの世界とは、やはり違う文化圏に属する音楽なのだと強く感じる。

リズムといい、メロディーといい、曲の構成といい。

それでも馴染みやすくカッコいいと思える曲もある。

一方で、どう聴いていいのか分からないというか、聴くポイントが分からない曲もある。

聴き慣れればまた、印象は変わるだろうか?

 

聴くポイントが分からない分、裏を返せば自由に、あるいはありのままに音を聴けるのかもしれない。

ひとまず、鳴っている音に耳を傾ける。

何も考えずに。

すると、アマゾンのジャングルに迷い込んだような気分になってくる。

木のざわめき。

その影に潜む、動物たち。

森は生命に溢れている。

そして、生命の律動。

様々な生命が重なり合い、共鳴し、どこからともなくリズムが生まれてくる。

そんな風景が見えてくる。

そんな風景を想像しながら、楽器演奏の無限の可能性を想う。

セッティングをマイナーチェンジ

自分が飽きっぽい性格かどうかは分からないが、マイナーチェンジは常日頃から繰り返している。

それは毎日のことと言ってもいいかもしれない。

マイナーチェンジがないと飽きてしまうから。

と、矛盾を内包したようなことを言っているが、お許しを。

昨日はスタジオ入りして個人練習。

思いつきで、ドラムのセッティングを変えてみる。

何を変えてみたか?

一つは、ドラムイスの高さ。

普段から高いわけではないが、それよりもさらに低めに。

重心が下がって安定感が増すような気がする。

一つは、スネアの角度。

普段は自分側に傾ける方だと思うけれど、昨日はほぼ水平に。

リバンウドを拾いやすくしてみたかったのと、太鼓がより鳴るような気がしたから。

けれど、水平にすると、リムしか叩けなくて音が鳴らないミスショットが増える。

もう一つは、タム、フロアタムの角度。

これも水平に近く。

 

セッティングが変わると、ドラムのプレイの仕方が変わる。

プレイの仕方が変わると、ドラムから出る音も変わる。

グルーヴ感も変わる。

セッティングを変えると、叩きやすくはない。

けれど、新鮮味が増す。

このマイナーチェンジ。

もうしばらく続けてみようかな。

紙の本と電子書籍、CDとストリーミング再生。

本が好きで、来る日も来る日も本を読んでいる。

時間があまり取れない日も多いけれど、それでも本を読まない日はない。

音楽が好きで、来る日も来る日も音楽を聴いている。

時間があまり取れない日も多いけれど、それでも音楽を聴かない日はない。

 

本は、紙の本でもKindleでも読む。

初めは懐疑的だった電子書籍も今ではすっかり慣れた。

慣れて今思うのは、やはり紙の本で読むのと電子書籍で読むのとでは同じ読むのでも違う体験だということ。

本の内容が変わるわけではない。

こちらの受け取り方が変わるのだ。

読むときの脳の使い方が変わるのだ。

電子書籍は、所有、管理、持ち運びに便利だけれど、頻繁に参照したい時にはやはり、紙の本の方が使い勝手が良い。

 

音楽は、CDでもストリーミングでも聴く。

初めは懐疑的だったストリーミング再生も、今ではすっかり慣れた。

慣れて今思うのは、やはりCDで聴くのとストリーミング再生で聴くのとでは、同じ音楽を聴くのでも違う体験だということ。

音楽の内容が変わるわけではない(どちらもデジタルであることに変わりはない)。

こちらの受け取り方が変わる。

定額制のストリーミングサービスでは、以前は想像すらできなかったほど大量の音楽に接することができるし、縦横無尽に聴きまくったり、大量の音源からお気に入りの曲を管理するのにとても便利だ。

けれど、音楽を作品として、アルバムをジャケットや曲順も含めた一つの作品として聴くのであれば、やはり「モノ」としてのCDを手元において、時々それを眺めながら聴きたい。

じっくり聴くのに使い勝手が良いのは、やはり「モノ」として存在するCDの方だ。

もちろん、レコードならなお良いだろう。

 

さて、今僕らは、「モノ」としてのCDを鋭意制作中である。

仕上がった音を聴くにつれ、やっぱり一つの作品として通して聴いてほしいなぁと思う。

ジャケットや歌詞カードを手に、一曲一曲じっくり聴いてほしいなぁと思う。

なにより通して聴いてこそ真価を発揮する作品なのだから、と勝手ながら記しておく。

「叩く」

「叩く」という行為。

何かを「叩く」という行為。

それは、根源的な何か。

ヒトの中に眠る根源的な何か。

さらに、道具を使って何かを「叩く」。

音のする何かを「叩く」。

キレイな音だったり、大きな音だったり、驚かせる音、勇気を奮い立たせる音、心を慰める音。

とにかく、何かを求めて音のするものを「叩く」。

長い年月をかけて、それらは洗練され、楽器というものが生まれてくる。

太鼓というものが生まれてくる。

そうして、ヒトはまた「叩く」。

太鼓を叩く。

そこに潜む根源的な何か。

 

「叩く」という行為には、人を気持ちよくさせる要素があると思う。

気持ちを解放させてくれる要素があると思う。

太鼓を叩けば、誰でも音を鳴らすことができる。

そして、シンプルな行為であればこそ、「叩く」ということには深さも伴う。

ドラムマガジン』のシングル・ストローク特集を読んでいて、そんなことを考えた。

 

伝えたいことがあり、人と共有するために演奏する

「アレクサンダー・テクニーク」という言葉が前々から気になっていて、バジル・クリッツァー著『音楽演奏と指導のための マンガとイラストでよくわかる アレクサンダー・テクニーク 実践編』という本を読んでみた。

音楽を実践する際に関わってくる、心と身体との関係性を探り、その知識を音楽活動に活かす。

「アレクサンダー・テクニーク」というものを僕なりに要約するとそんなところだろうか。

この本で一番大事な主張、何度も繰り返し述べられているのは、「音楽を演奏する」とはどういうことなのか?に対する、以下の回答だ。

 

なんらかのストーリー、メッセージあるいは意味を、聴いてくれている人と共有する

 

これが、「演奏する」ことの本質だという。

当たり前のことと言ってしまえばそうなのかもしれないけれど、ついつい忘れてしまいがちなことでもある。

自分の演奏ばかりに意識が向いてしまうと、特にそうだ。

 先日読んだ、武部聡志著『すべては歌のために』で述べられていた「歌詞にそって音でストーリーを表していく、音で展開を作っていく」という話とも、どこか繋がっている。

伝えたいことがあり、人と共有するために演奏する。

そして、その目的のために練習する。

忘れないようにしたい、メッセージ。