もはやアルバムという単位は意味をなさないのか?
世は、デジタル・ダウンロードやストリーミングの時代。
好きな曲は曲単位で手に入るし、むしろネットワーク環境さえあればいつどこでも聴けるので、「手に入れる」という言葉さえも現実にそぐわなくなりつつある、昨今(もちろん、例外はある)。
そうした状況を見るにつけ、「もはやアルバムという単位はほとんど意味をなさないのではないか?」と考え始めていた。
昨日、NOMAME『TELEFONE』というアルバムを聴いた。
どうやらデジタル配信のみで、CDなどモノとしては流通していないらしい。
このアルバムを、最初から最後まで通して聴く。
アルバムを全編通して聴くようなことは、最近ほとんどしていなかった。
もちろん、途中で飛ばすようなことはする。
それは、CDで聴いていて、「この曲いまいち(気に入らない)だから次の曲に飛ばしてしまおう」という感覚と一緒。
次の曲に飛ばすことはあっても、ひとまずは全曲に耳を通す。
こうして意識を集中してアルバムを聴いてみて、あるひとつの感想を持った。
アルバム1枚をひとつの作品として通して聴くことは、一冊の本を読むことに似ているなぁ、と。
アルバムを作品として味わうように鑑賞するなら、それは小説の世界を味わって読むかのようである。
どんなアーティストか?アルバムの中でどんなことが行われているか?つまり、分析したり何かを知ろうとするスタンスで聴くなら、本から何か知識を得ようとして本を読むかのようである。
ひるがえって、曲単位で聴く場合。
それは、雑誌の中の短い記事を読むかのよう。
あるいは、ネットで検索したページをざっと読むかのよう。
ピンポイントでその曲や、一つの事柄は分かるかもしれないが、全体像はつかめない。
コトが手軽に、簡単に済むから、印象にも残りにくい。
何かについて知りたい時、僕はやはり本を読みたい。
そうしないと、そこで得た知識は僕の中に入ってこない。
血肉にならない。
音楽も同様だ。
素通りするだけでなく、しっかり自分の中に入れていきたい音楽、血肉にしたい音楽については、やはりアルバムで聴きたい。
アルバムで聴くことこそが有益なのだ。
そう感じた、体験。