雑誌からでも、ネットやライヴからでも
ちょっと前に久しぶりにドラムマガジンを買ってみた。
その中に《ビートを刻む“ドラムスメ”たち》と題された、女性ドラマーに焦点を当てた特集がある。
知らないドラマーばかりだけど、記事自体はドラムに関する内容なので、もちろん興味深く読める。
ただ、内容をより深く理解するには、彼女らの演奏を観て聴いた方が良いだろう。
そのためには、以前ならCDを買ったり借りたりしてこなければならず、お金も手間もかかったものだけど、今はYouTubeがある。
便利になったものだ。
アニカ・ニルズ、ステラ・モズガワ、ハットリクミコ(敬称略)等々、検索して動画を観てみる。
カッコいい!
そして、新鮮な発見がある。
普段だったら出会ってないタイプの音楽だったりするけど、こうしてYouTubeで検索して動画で出会うのも良いもんだなぁ。
もっと聴きたいと思えば、音源を買うこともできる。
先日Mr.ワリコメッツで大阪に行った時、移動中の車内でいろいろと音楽を聴かせてもらった。
その時の精神状況のせいなのか分からないが、その時は自分の心にヒットした音楽がたくさんあった。
その中の1つがドーベルマン。
また聴きたいと思い、メンバーにアルバム名を確認して大阪にいる間にアマゾンで注文した。
今日それが届いたことを確認。
さっそく聴いてみた。
そうそう!これこれ!
音楽との出会い方には様々な経路がある。
道は1つに限らなくても、いろんな形で音楽に出会ったらいいと思う。
雑誌からでも、インターネットからでも、たまたま観たライヴからでも。
そして、偶然の出会いには新しい発見があったり新しい刺激があったりする。
いつでも新しい出会いは新鮮で、刺激に満ちたものであると再認識した1日であった。
違和感を感じてみる
「慣れ」というのはとても大切なものだ。
やはり慣れた手順は効率が良い。
練習というものは、この「慣れ」を獲得するためにするようなものだ。
だが時には、この「慣れ」から離れてみたくもなる。
普段とは違うことをしてみると、新しい発見があったりして、楽しい。
今日はMr.ワリコメッツでスタジオに入ってきた。
そして今日はドラムのセッティングをいじってみた。
どういじったかと言うとクラッシュシンバルを1つ減らしてみたのだ。
僕は普段、クラッシュシンバルを2枚、ライドシンバルを1枚、セッティングしてドラムを演奏する。
今日はそれをクラッシュシンバル1枚、ライドシンバル1枚のセッティングで演奏してみた。
やはり違った。
普段やり慣れた曲を演奏しても、いつもあるはずのところにクラッシュシンバルがないのだ。
そこで、別のシンバルを叩く。
あるいは、いや、ここはそもそも本当にクラッシュシンバルを叩く必要がある場所なのかどうか?
そういった根本的な問題を考えるきっかけにもなった。
いつもあるはずの場所に、あるべきものがない。
これは、ほんのちょっとした違和感だが、この小さな違和感が積もり積もって大きな変化になる。
そんな気がする。
そして、この違和感はやり慣れた曲であればあるほど大きくなる。
今後、今日のセッティングを採用するかどうかは分からない。
あるいはもう次回には元に戻しているかもしれない。
でも、ちょっと試してみて違和感を感じてみる、このこと自体に意味があるのだと思う。
そうだ、次回のライブは今週末、5月20日土曜日。
長野県上諏訪だ!
『漣流』、草野昌一×漣健児、を読んでいる
1960年代初頭。
それはビートルズの流行が日本にもやってくる前の時代。
アメリカン・ポップスを中心とした、今で言う「オールディーズ」という音楽が日本でも流行っていた。
それらの曲に、日本語に訳した詞を乗せて歌う「日本語カヴァー・ポップス」がもてはやされた時代があったという。
その訳詞は正確な訳ではなく、大胆に意訳したものだった。
それが独特な世界を作り、のちの日本の音楽界に与えた影響は計り知れない。
その日本語カヴァー・ポップスの訳詞の中心的役割を担っていたのが漣健児である。
本名を草野昌一という。
この辺の事情を、わりと最近に知った。
ここ1、2ヶ月くらいの話だ。
そして今、和田彰二著『漣流』という本を読んでいる。
読み始める前は、この本は訳詞家としての漣健児に焦点を当てたものだと思い込んでいたのだけど、読み進めてみるとそれは最初の一部分だけで、それよりもビジネスマンとしての草野昌一に焦点を当てた本だということが分かってきた。
音楽出版、原盤制作。
これらの言葉は何度読んでも未だによく理解できないのだけど、音楽をお金にする、音楽家にとって、いや音楽業界全体にとっても重要なシステムであることは分かる。
しかし、音盤が売れない昨今、これからも重要なシステムであり続けるかどうかは分からない。
歴史を知ってこれからを考える、いい機会。
西へ西へと
まだ日が昇らない早朝に目を覚まし、眠い目をこすりながら家を出発する。
早朝にもかかわらず都内にはこんなに活動している人々がいるのかと驚きつつも電車で移動して都内某所に集まる。
そして、メンバーと合流し、車で移動を開始。
東名高速を、神奈川県、静岡県、愛知県、三重県、滋賀県と、西へ西へとひたすら進む。
そして、京都や大阪へ。
移動時間はおよそ6〜7時間くらいか。
車内では、世間話から始まって、音楽一般の話、単なるバカ話、時にはライヴや活動の打ち合わせをする(こともあるかもしれない)。
その日のライヴ会場に着けば、慌ただしくリハーサルを済ませ、泊まりの時には宿のチェックインを済ませ、一息つくかつかぬかのうちにイベントは始まる。
そして、出番。
30分そこらのステージで、ここぞとばかりに全力を尽くし、終わってようやく一安心、対バンのライヴを楽しんだり、お客さんとの会話を楽しんだり、ビールで乾杯したりする。
時には深酒もしたりしてあまり寝る時間がなかったとしても、翌朝には都内へ向けて出発。
また6〜7時間とかかけて都内へと帰ってくる。
かなり体力を使うし、かかる経費を考えると収支はマイナスだ。
毎度そんな調子なのだけど、それでもやはり、またツアーに行きたいと思う。
何度でも行きたいと思う。
それは、そこに感動があるからだ。
好きな音楽を非日常の場でやれる感動。
それに強く反応してくれる人たちがいる感動。
そんな方々とライヴ後にコミュニケーションできる感動。
さて、今週末、5/6(土)。
大阪は難波メレでMr.ワリコメッツのライヴ。
どんな夜になるのか。
想いを馳せる。
ヒントを得る
「音楽を演っている」と一口に言っても、どんな楽器を演奏するかによってその内容はかなり違う。
ギターなのか、ベースなのか?
ドラムなのか、キーボードなのか?
管楽器とか、ハーモニカだってあるだろう。
あるいは歌うことだっていい。
音を出すということは身体を使うということ。
より良い演奏をするには、そしてより良い音を出すには、それに見合った身体の使い方があるものだ。
青柳いづみこ著『ピアニストは指先で考える』(中公文庫)という本を読んだ。
ピアニストであり文筆家でもある著者によるエッセイ集である。
ピアノという鍵盤楽器、しかもクラシックというジャンルなので、僕の関わる音楽とは相当かけ離れていると思いきや、読んでいると「その感じ、よく分かるなぁ!」というテーマにたびたび出くわす。
世の中、違いに着目すれば違いがたくさん見えてくるものだけど、共通点に着目すれば共感できるところが多く見つかるのかもしれない。
ピアノ演奏での身体の使い方を読むことを通して、ドラム演奏向上のヒントを得る。
嬉しい時間。
昨夜はスタジオ
昨夜は、Mr.ワリコメッツのスタジオに入ってきた。
8/13、京都拾得で決まっているワンマンライヴを念頭に、普段演ってない曲を久しぶりに合わせてみたり、新曲にチャレンジしてみたり。
最近、ドラムを叩くのがすごく楽しい。
詳細は省くが、自分の中でリズムの捉え方に変化がおとずれていて、それを意識しながらいろいろ試すのがマイブームなのだ。
なんとまぁ、マニアック。
単なる自分なりの楽しみだけなのかもしれない。
でも、まずはそれでもいい。
音楽は、バンドは、チームワークが大事であるけれど、それとともに確固とした自分の世界を築くことも大事だと思う。
それぞれの世界観を持ち寄ってこそのチームワークなのだと考えている。
京都拾得でのワンマンライヴで、最高の演奏をする。
それをリアルにイメージしつつ、日々音楽に取り組んでいこう。
今日もまた
ある曲を覚えて繰り返し練習する。
同じフレーズを何度も何度も練習する。
そうすることによって1つのことに習熟していく。
次から次へといろんな曲を聴いていく。
何かを身につけようとか覚えようとかするでもなく、多くの情報にどんどん身をさらしていく。
それらはそれぞれ、「深さ」と「広さ」を追究するアプローチ。
できることなら、両方ともを追い求めたい。
けれど、同じことを繰り返すと飽きてきてしまうというのも人情。
工夫が必要だ。
そんなことを考えながら、今日もまた、未だ出会わぬ曲や本を求めてしまう僕がいる。